2013年6月3日月曜日

【研究ノート】三好昭一郎著「徳島藩庚午事変の検証」から学ぶ/松本 博/〔連載第3回〕

 
    三好昭一郎著(2011年12月15日発行)『阿波近世史論―検証と再構築―』所収
    「徳島藩庚午事変の検証 -その背景の見直しを中心に-」から学ぶ
  〔連載第3回〕

松  本     博            

前回の続き)

    4 戊辰戦争と徳島藩の活躍 (続き)

  そして9月7日、新政府より更に500人の追加出兵の要請が下る。ここにおよんで、「阿淡は摂海枢要の地」であることと「遠路隔絶」を理由にして、つぎのような苦しい言い訳をする。
  「弊藩兵隊五百人、至急東京へ指し出すべき旨、昨日御達しの趣畏み奉り候、然る処、兼ねて人数少しの上・・・遠路隔絶、往復の日間もこれ有り至急の御用節のため遅延にあい至り候ては忽ち不都合に相成り申すべきは必然の儀と重畳恐れ入り奉り候」(『復古記』)
  続いて9月28日、ついに徳島藩はこれ以上の負担に耐えられず、「国力の限界」わけても経済的疲弊はいかんともし難く追加出兵を忌避したのである。
  「最早国力あいおよびがたく、根元疲弊の上、頻年天災、洪水等打ち続き、旁以って巨万の失費限り無く・・・この上会計の道いかんとも方便御座なく、一藩食禄減少申し付け、必至困窮必死の極に立ち至りおり候」(『復古記』)
  その後、奥州に弱小の兵力を留め対面だけを保った公議政体派・徳島藩は、「右出張の節、朝廷より御渡し仰せ付け置かれ候御旗の儀、何卒そのまま当藩へ拝領仰せ付けられ下されたく、此段願い奉り候」と朝廷より預かった「菊章旗」の下賜を願うのが精一杯であった。それは、明治元年10月25日のことであった。

  さらに筆者はつぎの史料に注目する。(写真参照/徳島県立文書館所蔵「武田家文書」)


徳島県立文書館所蔵武田家文書『時勢見聞録』  表紙


左側のページの冒頭から


右側のページの末尾まで

当藩之武断ハ乏シク 他藩之指笑(嗤笑か)ヲ受候ハ今更申迄モ無之 遺憾切歯ニ不絶次第ニ候 先年奉命東下候茂鎮撫之為ト者申ナカラ 東国江出陣モ不被仰付 譬被仰付迚モ黙々滞府可致訳ニ無之 幾重ニモ歎願シ兵ヲ率シテ進軍可致ハ当然ニ候処 其節ハ其心寄モ薄キ処ヨリ徒ニ府下之御用ノミ相勤今日ニ至リ 何ノ方効(報効か)モ不相立他藩之指笑(嗤笑)ヲ受候段 於武門残念至極之次第ニ候 去ナカラ此件ハ既往ニ属シ無詮方次第唯向後万一急務之節 他藩ニ先タチ輦下馳参シ 何地江成共唯壱軍挙而為王事躬鞠(鞠躬)尽力セスンハ有へカラスト存込候ニ付 於一同臣ニ乱ヲ忘サルノ覚悟尤専要ト存候 依而如此陳述致候也
知  事   
  (明治二年)九月十二日              蜂須賀家旧藩主
従二位公也  
                                 参 事
                                 隊長中
                                 其他役人中
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  〔補注〕
      指笑(嗤笑・ししょう=あざけり笑うこと) 
      方効(報効=恩に報いて力をつくすこと)
      輦下(れんか=天子のひざもと) 
      躬鞠(鞠躬・きっきゅう=身を屈めて慎みかしこまるさま)
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  ここに掲げた史料は美馬郡東端山の「武田家文書」(『時勢見聞録』)によるものである。知藩事蜂須賀茂韶の名において藩内に掲示または回達文として出まわったものを、庄屋武田家が書き留めたものである。筆写控えとして記録されたものであるため、誤字・当て字等があるが、明治2年段階までの藩内の政治的・軍事的・社会的事情が率直に表明されていている。そこには幕末以来、時局の動向に追随しようとしてそれが十分にできなかった公議政体派・徳島藩の苦渋の実態が吐露されている。この文書の内容は、ある意味では維新史徳島藩の到達点であり、庚午事変前夜の追いつめられた藩内事情を伝えるものと思えてならない。

  三好氏がいう徳島藩の「相応の活躍」が「稲田家中と比較して、決して劣るものではないと若い兵士たちが自負していた」との評価は、維新政変のなかで相対化して見直してみる必要がありはしないかと思われる。


    5 版籍奉還と稲田旧家中の動向

  戊辰戦争の後、明治政府は中央集権的な天皇制国家の形成にむけて版籍奉還を断行するが、それによってそれまでの大名と家臣の主従関係は解消され、いわゆる身分制と禄制の改革がおこなわれる。それにともなう家臣団の待遇の改変によって大名の直臣と陪臣の間に深刻な格差が生じた。

  三好氏は、稲田主従によって繰り返し執拗に行われた待遇改善の歎願と「稲田藩」分藩独立運動について、その過程を丁寧に分析し問題点を明らかにしている。そして稲田主従の要求には、前述の洲本城下に集中する上層家臣と、稲田氏の猪尻屋敷を中心に集住した猪尻侍との間には意識の上で大きな隔たりがあったことを強調する。特に猪尻派の南薫風が同志である先川牧之進に宛てた手紙に注目して、猪尻侍が洲本派の要求する分藩には批判的であったことを明らかにしている。この問題点の指摘は、今後庚午事変の再検討をする上で見逃せない視角であり、猪尻派で尊王運動に活躍した尾方長栄の動向などとともに注目しなければならないことを教えられる。

  また、ほとんど同じ時期に起こった長州の脱隊騒動や福井藩の武生騒動との比較研究の重要性についても触れており、他藩との比較も庚午事変再検討の忘れてはならない視角であることを教えられる。


※ この記事は全4回連載の予定です(次回〔最終回〕は、6月10日〔月〕公開)。