2013年5月27日月曜日

【研究ノート】三好昭一郎著「徳島藩庚午事変の検証」から学ぶ/松本 博/〔連載第2回〕

  
    三好昭一郎著(2011年12月15日発行)『阿波近世史論―検証と再構築―』所収
    「徳島藩庚午事変の検証 -その背景の見直しを中心に-」から学ぶ
  〔連載第2回〕

松  本     博            

前回の続き)

    3 稲田家主従の独自路線

  ここでは三好氏は、稲田家臣(陪臣)を洲本派と猪尻派とに分けて、その両派の異なる意識と行動を問題にする。従来より氏がとくに庚午事変の研究上において重視してきた課題である。これまでの研究史上、筆者も学ぶところの多い課題である。とくに『稲田家中筋目帳』や「蓁原家文書」の解読と分析(この2つの文書を対象とする研究はまだまだ不十分であると思われるが)によって稲田家主従の事変への対応に違いがあったことが闡明になると思われる。三好氏はこの論文においてその作業の糸口をわれわれに提示してくれている。氏は稲田家と洲本派および猪尻派との間にある主従関係の成り立ちをつぎのように考える。まず洲本派は、洲本城下に集中した稲田家の上層家臣で三田昂馬、内藤弥兵衛ら高禄の陪臣たちである。のちに彼らが中心となって士族待遇実現の歎願書を提出したり、さらに稲田藩の分藩を主張することになる。一方、猪尻派は稲田家の美馬郡猪尻屋敷を中心に集住していた陪臣たちである。この猪尻派について三好氏は「天保期以降に家臣として取り立てられた新規召抱えの者が多く、その大半は村役人や富農たちの家系に繋がる人たち」であったと云う。『稲田家中筋目帳』によると「一二〇人の家臣が侍町に居住して拝知支配の本拠としていた。両郡(美馬・三好)の一九か村にも一、〇九七人の家臣が散在していて、これらを総称して猪尻侍といっていた」と。またこれら猪尻侍の知行高は異常に低かったという。こうした両者の存在形態の違いは、やがて稲田氏の分藩運動への対応の違いとなって顕在化してゆくこととなる。

  そしてさらにまた一方、淡路の由良・岩屋の海防がとくに重視され稲田氏にその任務が担わされるにおよんで「稲田家主従はそのような淡路海防の前線を担うことを契機に、急速に家来の新規取り立てを図るとともに、家政改革を成功させて、藩からの自立意識を強めるに至ると、やがて稲田家として単独で尊攘路線に傾斜していった」のだと三好氏はいう。しかし、この猪尻侍と淡路の海防との関係はどのような実態であったかについては論究されていない。今後の研究課題としなければならないであろう。


    4 戊辰戦争と徳島藩の活躍 (前半)

  この章はこれまで三好氏が積極的に触れることのなかった部分である。これまでの研究において、稲田氏の尊王討幕運動が過大に評価され、逆に徳島本藩側の活動が正当に評価されていないことを危惧して、ここに新たな提案がなされたものと考える。その点、筆者はいくつかの論評をしていることもあって強い関心をもって学ぼうとしたところである。

  三好氏は、まず「新政府による出兵の相次ぐ命に従って、その都度陸海の諸戦に出兵し、京都から奥州の三陸沖に至る広範な戦闘において、窮乏する藩財政事情にも拘わらず、相応の活躍を演じていることは、多くの文献、史料で容易に確認することができる」と述べている。そして「蜂須賀家記」「管内布達」「鎮台日誌」「陣中日誌」「太政官日誌」などから、徳島藩がうけた出兵要請の事実や各地での戦況とその結果などが引用、紹介されている。
  慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いから、翌明治2年5月の函館戦争までの長期、広範囲にわたる旧幕府軍と新政府軍の戦いが戊辰戦争ではあったが、本質的には王政復古後の維新政府部内における薩長を中心とする挙兵討幕派と土佐・越前などを主軸とする公議政体派との間の主導権争いとしての性格をも内包していた。したがって諸藩の動向は複雑多様、また一進一退を繰り返し、しかも諸藩の事情は政治的立場の上でも藩財政上においても混乱、妥協と対立、逼迫が厳しく問われた。「曖昧藩」「公武合体派」から討幕派に転じたという徳島藩を新政府が戦力としてどのように引き込もうとしたかについても十分に考慮しながら史料を読み込むことが必要であろう。三好氏が本節において引用されている史料中の「・・之砌人数致出張候段神妙ニ候」「・・各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食」などの表記にも「相応の活躍」として消極的に認知されたものであることに留意しておくべきであろう。

  そのこと以上に注目しなければならないことは、新政府から各地での戦いに出兵を「命じられ」ているにもかかわらず、その要請に応じ切れていない(むしろ忌避したというべき)事実の確認が必要であろう。例えば、慶応4年5月に奥羽越列藩同盟が成立し、さらに討幕軍が上野に彰義隊を討つが、この直前に徳島藩は「・・就テハ奉職以来寸功モ無之、乍漸時御暇奉願候段、別テ本意ニ相背候得共、従来辺鄙頑固之国情、(中略)何卒百日計御暇被下置、一応帰国、速ニ一新之実効相立申度奉存候」(『復古記』)と一時帰国を願い出ていること、さらに帰国直後に願い出た「貨幣鋳造の許可申請書」のなかに吐露されている事態は深刻であった。

  それは「関東鎮撫として東下を仰せつけられているが、国元では頻年出水旱ばつで凶作が続き、藩の財政はひしと窮迫している上、春以来処々に出兵し何かと費用がかさみ、ただちに軍資金調達の目当てもなく、止むを得ず出兵の直前に拝借金を願い出たが許可されず当惑難渋するばかりであった。しかしながら出兵の日延べを請うことは勤王の志にそむくことになり部門において不本意である。最早他に方法はなく、この上は阿淡両国限り通用の金銭を鋳造することを許されれば融通の目途も立ち借財も何とかできる。これが許可されないならば、東征出兵も不可能である。この段ひとえに懇願するしだいである。」(『復古記』筆者意訳)というのである。

  この申請書は5月晦日に阿波中納言(茂韶)から弁事宛に出されたものである。ここに当時の徳島藩内事情のすべてが集約されて表現されているといっても過言ではないであろう。その後、徳島藩は兵制も十分に整わないまま6月、奥州白川口まで応援出兵しているが、藩内の「稲田隊」の活躍に期待せざるをえないまま事態は推移する。そして9月7日、新政府より更に500人の追加出兵の要請が下る。ここにおよんで、「阿淡は摂海枢要の地」であることと「遠路隔絶」を理由にして、つぎのような苦しい言い訳をする。    (連載第2回終わり/次週に続く)

※ この記事は全4回連載の予定です(次回は、6月3日〔月〕公開)。
  



2013年5月20日月曜日

【研究ノート】三好昭一郎著「徳島藩庚午事変の検証」から学ぶ/松本 博/〔連載第1回〕

  
    三好昭一郎著(2011年12月15日発行)『阿波近世史論―検証と再構築―』所収
    「徳島藩庚午事変の検証 -その背景の見直しを中心に-」から学ぶ
  〔連載第1回〕

松  本     博            

  このたび三好昭一郎氏が表記の労作を公にされた。この論文は、2011年1月に発表された『阿波郷土史論集』PART7所収論文「明治三年徳島藩騒擾事件の再検討」に徹底検証のうえ補筆したものであると氏は述べておられる。とくに《戊辰戦争と徳島藩の活躍》という新たな章を設け、この事変の背景として戊辰戦争における徳島(本)藩側の「活躍」を具体的に論証されようとしていることは注目される。また三好氏は冒頭、これまで阿波、淡路のそれぞれにおける研究に誤謬や偏り、歪曲があったことを指摘し「一挙に事が運べそうもない」としながらも、この事変に関する膨大な史料の選択や歴史的証言の信憑性に疑問をいだきつつ「先行研究を批判することから始めたい」と意欲的に述べておられる。

  そこでまず、三好氏が検証の枠組みとして設けられている項目の順を追って、筆者(松本)の気がついた部分をとりあげながら、この提案論文から学ぶべきところやいささか気になることがらを述べてみたい。

*          *          *

    1 研究史の再検討

  ここでは、三好氏はまず『徳島県史』・『兵庫県史』の記述の明らかな間違いや不十分さについて述べられているが、それはここではさておき、三好氏が『洲本市史』における新見貫次氏の諸説を紹介している部分は、しっかりと耳を傾け今後の研究の参考にすべきものと考える。

  稲田氏の家老職、洲本城代職、洲本仕置職の成立の時期とその後の職務・権能・権限の推移の問題を新見氏は『洲本市史』でどう書かれているかを三好氏は引用する。そして「その論旨は歯切れよくない」とことわりつつ、新見氏のいう「城代や仕置といってもそれが世襲でなくその人によって違うので、淡路全体の支配者はあくまで蜂須賀氏であり、その任命を受けていろいろの職務を担当したのが稲田氏である」とする説は実証的論究であると主張する。そして三好氏は「淡路経営の機構は洲本仕置職という藩の出先機構と考える」とし、これまでの稲田氏による淡路の一円支配または委任統治という考えや、筆者などがいう徳島藩政の「二重構造論」を否定する。淡路における稲田氏を過大評価する説の否定ともいえよう。

  今後の庚午事変の背景を探ることを目的とする研究において、稲田氏の徳島藩筆頭家老職・洲本城代職・洲本仕置職のそのそれぞれの成立の過程、年代および任命権など、この複雑な問題は、制度上の問題か、単なる機構の問題か、または実質的権能の問題か、徳島藩の藩内の権力基盤の問題か、そしてさらに対幕府関係は捨象できるかなどが再検討される必要があるであろう。また「世襲」の意味と現実的実態の推移の問題も同様である。それらを説得力をもって語れることは、幕末徳島藩における稲田氏の存在について検討する場合の重要な指針となるものと思われる。


    2 幕末徳島藩の政治過程

  ここでは、藩主斉裕の政治的立場とその子の世嗣茂韶時代の藩の立場および行動の問題が問われる。幕末の徳島藩は11代将軍家斉の第22子であった斉裕を養子に迎え13代藩主とした。12代藩主蜂須賀斉昌には子がなく、しかも時代は天保期という藩財政の窮迫と百姓一揆の多発する藩内事情もあったこと。また、斉裕が乞われて幕政に関わったために藩の政治を家老層に委ねる体制に頼ることとなったこと。そのことから政局のゆくえを占う藩論の統一もできなかった。それらの事情を三好氏は「筆頭家老稲田植誠主従の尊攘運動という独自の行動に駆り立てる背景となった」と述べる。幕末の徳島藩をこれまで一般に「曖昧藩」「公武合体藩」「公議政体派」としてみたり、さらには藩主茂韶の時代を、曖昧藩から討幕派への転身などと評価されてきた。

  三好氏はその時期の政治過程を具体的に整理しようとする。淡路の海防体制の強化、とりわけ由良浦、岩屋浦の台場築造が注目されたこと、また、藩内攘夷派の結集に努めた新居与一助や、藩外の攘夷派との交流を深めたという志摩利右衛門などを「氷山の一角」として紹介するが、結局藩内の志士たちの動向は「個別分散的で、藩論を討幕路線に転換させる力とはならず、藩中枢を動かすものとはならなかった」という。そして「こうした藩内の情勢が稲田主従の運動に対して、決定的な負い目となって藩士たちの間に反稲田感情を定着させてきたことは否定できない」という。

  さらに三好氏は、徳島藩の政治姿勢を「曖昧藩」と規定することに異議を唱えるが、幕末における現実の政治状況のなかでは、佐幕も討幕もその立場上鮮明にすることもなかった「斉裕治下の徳島藩は確かに曖昧藩とみられていたことは確かなことである」とも述べている。    (連載第1回終わり/次週に続く)

※ この記事は全4回連載の予定です(次回は、5月27日〔月〕公開)。