2013年6月10日月曜日

【研究ノート】三好昭一郎著「徳島藩庚午事変の検証」から学ぶ/松本 博/〔連載最終回〕

 
    三好昭一郎著(2011年12月15日発行)『阿波近世史論―検証と再構築―』所収
    「徳島藩庚午事変の検証 -その背景の見直しを中心に-」から学ぶ
  〔連載最終回〕

松  本     博            

(前回の続き)

    6 徳島藩兵隊の反発と洲本襲撃  《 *最も注目すべき提案! 》 

  ここでは淡路洲本派を中心として分藩独立運動を展開した稲田氏に襲撃を加えたのは、徳島本藩の士族だけではなく多数の淡路農兵隊であったことを明らかにしようとする。本論文のなかで三好氏が再検討課題として重視提案する問題である。このテーマは徳島におけるこれまでの庚午事変研究に新たなイメージを持ち込んだとさえいえる注目すべき提案である。すでに淡路においては菊川兼男氏が「淡路農兵隊の経緯」(多田伝三先生古希記念『阿波文化論集』所収)や三好氏が本論文中に引用する菊川氏の「明治維新前後の徳島藩淡路の動向」などによってあつかわれてきた問題であるが、庚午事変の全容を明らかにしようとする意図をもってこの淡路農兵隊の問題に焦点をあてた傾聴に値する提案である。

  版籍奉還にともなう藩政の改革によって、稲田家旧家臣(陪臣)は士族に編入されず藩の銃卒とされ経済的にも冷遇された。しかし、この稲田陪臣たちは、幕末には勤王派として活動し、戊辰戦争の段階におよんでは新政府から徳島藩や丸亀藩と対等で「洲本藩」などと併記され東征軍への出征の要請を受けた。稲田主従によるこの「洲本藩」の僭称にはそれなりの理由があった。それは三好氏も認めているように、稲田氏の旧家来から知藩事に出された第四回陳情書のなかに述べられている「稲田家の功績」に自負するところがあったからである。それはやがて分藩運動へと発展するが、そこのところを三好氏は「洲本派の場合は王事に奔走し、戊辰戦争に加わった真の狙いが藩の支配から脱し、身分の上昇を期待することにあった」と評価する。

  ところが、稲田主従の分藩要求が顕在化するにおよんで徳島藩の士族は檄文をもって、稲田旧家来の誅伐を呼びかけるが、「とくに洲本の襲撃に際して主体的に攻撃に加わったのが藩の淡路農兵隊員たちであって、農兵の参加が事件の性格をより複雑なものにしている」と三好氏はいう。淡路農兵の編成の経過と実態、そして戊辰戦争に徳島本藩側の農兵として駆り出された事実などについて、ここで詳しく紹介する余裕はないが、三好氏は、淡路農兵は「御蔵百姓を対象とし頭入百姓は徴集していない。そのため稲田家の知行地からは一人の農兵も出していないことは明らかである」という。幕末の淡路海防の総指揮権を委ねられた稲田氏が、土着の士=淡路農兵に対してどのような処遇をしているかは今後の課題ではあるが、三好氏は「稲田家中に対して農兵が被差別の状況の下で、駐屯させられていた事実があり、農兵たちが騒擾事件に際して過激な軍事行動に出た背景があったものと推測することができそうである」と述べる。


    7 洲本襲撃と事後処理 

  最終章では徳島藩士および淡路農兵隊によって、洲本稲田家下屋敷ほか三熊山麓の旧稲田家臣が集住する武家街一帯が襲撃せられた明治3年5月13日とそれ以後の事変の処理状況が問題にされる。この洲本襲撃を実行した藩兵諸隊は銃士100余人、銃卒4大隊、大砲4門の編成であったといわれ、この「諸隊には八〇〇人の農兵も集結したとされ」(三好氏)ている。一方、無抵抗を守ったといわれる稲田方は、稲田家宇山邸のほか洲本派重臣たちの屋敷、学問所益習館、長屋多数が焼き払われ、また多くの死者、自殺者、負傷者がでた。また同時に計画された美馬郡脇町の猪尻への襲撃、そして「大坂の稲田家蔵屋敷と徳島城下の寺島屋敷も狙われたが、いずれも未遂」に終わった。この一連の騒擾事件を結果として太政官は、襲撃を加えた藩兵側には10名の斬罪ほか、多数の流刑、禁固刑、謹慎等を命じ、また分藩運動を展開した稲田旧家臣たちには北海道開拓移住を命じた

  日本の近代化の過程で起こったこの悲劇事件は、その後の徳島そして淡路の地域社会の政治、経済、文化活動などに絶大な影響をおよぼした。その総括は今後もつづけねばならないであろう。三好氏はこの対立した「両者の意識と行動を分け隔てる決定的な要因として、近世初頭以来の藩による稲田氏の処遇に対する不満、版籍奉還を経ても改められない守旧的意識など、分析対象としなくてはならない課題が山積していることを痛感させられる」と問題点を指摘する。

*           *           *

  「まとめ」のなかで三好氏は「本論では在来研究の空白部分を埋めることを課題として取り組むことにした」と述べるとともに「課題にアプローチするためには、藩政初頭における藩の稲田氏に対する処遇の問題にも遠因があることを否定できない」とする。「淡路の海防を稲田氏に代行させている」ことの意味とともに、やはり前記一章で述べられている難解な課題である。

  また「ここで論じることができたのは、事件の政治過程の概略を整理できたに過ぎず、収集し得た膨大な史料の解読や分析も、すべて今後の課題としなくてはならず、日暮れて道遠しの感に呆然自失の昨今である」と述懐されるが、筆者にとっては多くの新しい提案や問題点の大胆な指摘があって刺戟的である。久しぶりに何度も読み返した労作を後進の筆者に与えてくれたことを感謝する次第である。

  さらに最後に三好氏は、庚午事変後の地域徳島の研究課題にそれらの問題点をどう繋いでゆくかを考えたとき「迷路に踏み込んだというのが実感」であるとまで述べておられる。一点にとどまり逡巡している筆者にしてみれば、頼もしくもあり、また恐ろしくもある。さらにご健筆を祈る次第である。
  

【参照文献】
  ○ 拙稿「公議政体派・徳島藩 覚書―蜂須賀斉裕から茂韶へ―」(『凌霄』第15号、四国大学、2008年)。
  ○ 拙稿「戊辰戦争と公議政体派徳島藩」(『明治維新と阿波の軌跡』、教育出版センター、1977年)。
  ○ 拙稿「稲田騒動とその諸環境―維新変革と分藩運動事件―」(『明治維新と阿波の軌跡』前掲)。
  ○ 拙稿「淡路洲本城代の成立をめぐって―徳島藩制成立期における一問題点―」(『明治維新と阿波の軌跡』前掲)。
  ○ 「誌上討論/徳島藩明治維新史の評価をめぐって」(『史窓』第3号、徳島地方史研究会、1972年)所収の拙稿及び三好昭一郎氏の論考。

-----------------------------------------------------------------------------------

※ この研究ノートは、三好昭一郎氏の個人研究誌『読史異論』4 に掲載されたものである。徳島藩幕末・維新史に関心をもっておられる方々への報告ノートとしてより広くお読みいただくために、徳島地方史研究会のホームページにも掲載していただくこととなった。事務局の松下師一氏には厚くお礼を申し上げる。(2013年5月20日)
  

2013年6月3日月曜日

【研究ノート】三好昭一郎著「徳島藩庚午事変の検証」から学ぶ/松本 博/〔連載第3回〕

 
    三好昭一郎著(2011年12月15日発行)『阿波近世史論―検証と再構築―』所収
    「徳島藩庚午事変の検証 -その背景の見直しを中心に-」から学ぶ
  〔連載第3回〕

松  本     博            

前回の続き)

    4 戊辰戦争と徳島藩の活躍 (続き)

  そして9月7日、新政府より更に500人の追加出兵の要請が下る。ここにおよんで、「阿淡は摂海枢要の地」であることと「遠路隔絶」を理由にして、つぎのような苦しい言い訳をする。
  「弊藩兵隊五百人、至急東京へ指し出すべき旨、昨日御達しの趣畏み奉り候、然る処、兼ねて人数少しの上・・・遠路隔絶、往復の日間もこれ有り至急の御用節のため遅延にあい至り候ては忽ち不都合に相成り申すべきは必然の儀と重畳恐れ入り奉り候」(『復古記』)
  続いて9月28日、ついに徳島藩はこれ以上の負担に耐えられず、「国力の限界」わけても経済的疲弊はいかんともし難く追加出兵を忌避したのである。
  「最早国力あいおよびがたく、根元疲弊の上、頻年天災、洪水等打ち続き、旁以って巨万の失費限り無く・・・この上会計の道いかんとも方便御座なく、一藩食禄減少申し付け、必至困窮必死の極に立ち至りおり候」(『復古記』)
  その後、奥州に弱小の兵力を留め対面だけを保った公議政体派・徳島藩は、「右出張の節、朝廷より御渡し仰せ付け置かれ候御旗の儀、何卒そのまま当藩へ拝領仰せ付けられ下されたく、此段願い奉り候」と朝廷より預かった「菊章旗」の下賜を願うのが精一杯であった。それは、明治元年10月25日のことであった。

  さらに筆者はつぎの史料に注目する。(写真参照/徳島県立文書館所蔵「武田家文書」)


徳島県立文書館所蔵武田家文書『時勢見聞録』  表紙


左側のページの冒頭から


右側のページの末尾まで

当藩之武断ハ乏シク 他藩之指笑(嗤笑か)ヲ受候ハ今更申迄モ無之 遺憾切歯ニ不絶次第ニ候 先年奉命東下候茂鎮撫之為ト者申ナカラ 東国江出陣モ不被仰付 譬被仰付迚モ黙々滞府可致訳ニ無之 幾重ニモ歎願シ兵ヲ率シテ進軍可致ハ当然ニ候処 其節ハ其心寄モ薄キ処ヨリ徒ニ府下之御用ノミ相勤今日ニ至リ 何ノ方効(報効か)モ不相立他藩之指笑(嗤笑)ヲ受候段 於武門残念至極之次第ニ候 去ナカラ此件ハ既往ニ属シ無詮方次第唯向後万一急務之節 他藩ニ先タチ輦下馳参シ 何地江成共唯壱軍挙而為王事躬鞠(鞠躬)尽力セスンハ有へカラスト存込候ニ付 於一同臣ニ乱ヲ忘サルノ覚悟尤専要ト存候 依而如此陳述致候也
知  事   
  (明治二年)九月十二日              蜂須賀家旧藩主
従二位公也  
                                 参 事
                                 隊長中
                                 其他役人中
----------------------------------------------------
  〔補注〕
      指笑(嗤笑・ししょう=あざけり笑うこと) 
      方効(報効=恩に報いて力をつくすこと)
      輦下(れんか=天子のひざもと) 
      躬鞠(鞠躬・きっきゅう=身を屈めて慎みかしこまるさま)
----------------------------------------------------
  ここに掲げた史料は美馬郡東端山の「武田家文書」(『時勢見聞録』)によるものである。知藩事蜂須賀茂韶の名において藩内に掲示または回達文として出まわったものを、庄屋武田家が書き留めたものである。筆写控えとして記録されたものであるため、誤字・当て字等があるが、明治2年段階までの藩内の政治的・軍事的・社会的事情が率直に表明されていている。そこには幕末以来、時局の動向に追随しようとしてそれが十分にできなかった公議政体派・徳島藩の苦渋の実態が吐露されている。この文書の内容は、ある意味では維新史徳島藩の到達点であり、庚午事変前夜の追いつめられた藩内事情を伝えるものと思えてならない。

  三好氏がいう徳島藩の「相応の活躍」が「稲田家中と比較して、決して劣るものではないと若い兵士たちが自負していた」との評価は、維新政変のなかで相対化して見直してみる必要がありはしないかと思われる。


    5 版籍奉還と稲田旧家中の動向

  戊辰戦争の後、明治政府は中央集権的な天皇制国家の形成にむけて版籍奉還を断行するが、それによってそれまでの大名と家臣の主従関係は解消され、いわゆる身分制と禄制の改革がおこなわれる。それにともなう家臣団の待遇の改変によって大名の直臣と陪臣の間に深刻な格差が生じた。

  三好氏は、稲田主従によって繰り返し執拗に行われた待遇改善の歎願と「稲田藩」分藩独立運動について、その過程を丁寧に分析し問題点を明らかにしている。そして稲田主従の要求には、前述の洲本城下に集中する上層家臣と、稲田氏の猪尻屋敷を中心に集住した猪尻侍との間には意識の上で大きな隔たりがあったことを強調する。特に猪尻派の南薫風が同志である先川牧之進に宛てた手紙に注目して、猪尻侍が洲本派の要求する分藩には批判的であったことを明らかにしている。この問題点の指摘は、今後庚午事変の再検討をする上で見逃せない視角であり、猪尻派で尊王運動に活躍した尾方長栄の動向などとともに注目しなければならないことを教えられる。

  また、ほとんど同じ時期に起こった長州の脱隊騒動や福井藩の武生騒動との比較研究の重要性についても触れており、他藩との比較も庚午事変再検討の忘れてはならない視角であることを教えられる。


※ この記事は全4回連載の予定です(次回〔最終回〕は、6月10日〔月〕公開)。