2013年6月10日月曜日

【研究ノート】三好昭一郎著「徳島藩庚午事変の検証」から学ぶ/松本 博/〔連載最終回〕

 
    三好昭一郎著(2011年12月15日発行)『阿波近世史論―検証と再構築―』所収
    「徳島藩庚午事変の検証 -その背景の見直しを中心に-」から学ぶ
  〔連載最終回〕

松  本     博            

(前回の続き)

    6 徳島藩兵隊の反発と洲本襲撃  《 *最も注目すべき提案! 》 

  ここでは淡路洲本派を中心として分藩独立運動を展開した稲田氏に襲撃を加えたのは、徳島本藩の士族だけではなく多数の淡路農兵隊であったことを明らかにしようとする。本論文のなかで三好氏が再検討課題として重視提案する問題である。このテーマは徳島におけるこれまでの庚午事変研究に新たなイメージを持ち込んだとさえいえる注目すべき提案である。すでに淡路においては菊川兼男氏が「淡路農兵隊の経緯」(多田伝三先生古希記念『阿波文化論集』所収)や三好氏が本論文中に引用する菊川氏の「明治維新前後の徳島藩淡路の動向」などによってあつかわれてきた問題であるが、庚午事変の全容を明らかにしようとする意図をもってこの淡路農兵隊の問題に焦点をあてた傾聴に値する提案である。

  版籍奉還にともなう藩政の改革によって、稲田家旧家臣(陪臣)は士族に編入されず藩の銃卒とされ経済的にも冷遇された。しかし、この稲田陪臣たちは、幕末には勤王派として活動し、戊辰戦争の段階におよんでは新政府から徳島藩や丸亀藩と対等で「洲本藩」などと併記され東征軍への出征の要請を受けた。稲田主従によるこの「洲本藩」の僭称にはそれなりの理由があった。それは三好氏も認めているように、稲田氏の旧家来から知藩事に出された第四回陳情書のなかに述べられている「稲田家の功績」に自負するところがあったからである。それはやがて分藩運動へと発展するが、そこのところを三好氏は「洲本派の場合は王事に奔走し、戊辰戦争に加わった真の狙いが藩の支配から脱し、身分の上昇を期待することにあった」と評価する。

  ところが、稲田主従の分藩要求が顕在化するにおよんで徳島藩の士族は檄文をもって、稲田旧家来の誅伐を呼びかけるが、「とくに洲本の襲撃に際して主体的に攻撃に加わったのが藩の淡路農兵隊員たちであって、農兵の参加が事件の性格をより複雑なものにしている」と三好氏はいう。淡路農兵の編成の経過と実態、そして戊辰戦争に徳島本藩側の農兵として駆り出された事実などについて、ここで詳しく紹介する余裕はないが、三好氏は、淡路農兵は「御蔵百姓を対象とし頭入百姓は徴集していない。そのため稲田家の知行地からは一人の農兵も出していないことは明らかである」という。幕末の淡路海防の総指揮権を委ねられた稲田氏が、土着の士=淡路農兵に対してどのような処遇をしているかは今後の課題ではあるが、三好氏は「稲田家中に対して農兵が被差別の状況の下で、駐屯させられていた事実があり、農兵たちが騒擾事件に際して過激な軍事行動に出た背景があったものと推測することができそうである」と述べる。


    7 洲本襲撃と事後処理 

  最終章では徳島藩士および淡路農兵隊によって、洲本稲田家下屋敷ほか三熊山麓の旧稲田家臣が集住する武家街一帯が襲撃せられた明治3年5月13日とそれ以後の事変の処理状況が問題にされる。この洲本襲撃を実行した藩兵諸隊は銃士100余人、銃卒4大隊、大砲4門の編成であったといわれ、この「諸隊には八〇〇人の農兵も集結したとされ」(三好氏)ている。一方、無抵抗を守ったといわれる稲田方は、稲田家宇山邸のほか洲本派重臣たちの屋敷、学問所益習館、長屋多数が焼き払われ、また多くの死者、自殺者、負傷者がでた。また同時に計画された美馬郡脇町の猪尻への襲撃、そして「大坂の稲田家蔵屋敷と徳島城下の寺島屋敷も狙われたが、いずれも未遂」に終わった。この一連の騒擾事件を結果として太政官は、襲撃を加えた藩兵側には10名の斬罪ほか、多数の流刑、禁固刑、謹慎等を命じ、また分藩運動を展開した稲田旧家臣たちには北海道開拓移住を命じた

  日本の近代化の過程で起こったこの悲劇事件は、その後の徳島そして淡路の地域社会の政治、経済、文化活動などに絶大な影響をおよぼした。その総括は今後もつづけねばならないであろう。三好氏はこの対立した「両者の意識と行動を分け隔てる決定的な要因として、近世初頭以来の藩による稲田氏の処遇に対する不満、版籍奉還を経ても改められない守旧的意識など、分析対象としなくてはならない課題が山積していることを痛感させられる」と問題点を指摘する。

*           *           *

  「まとめ」のなかで三好氏は「本論では在来研究の空白部分を埋めることを課題として取り組むことにした」と述べるとともに「課題にアプローチするためには、藩政初頭における藩の稲田氏に対する処遇の問題にも遠因があることを否定できない」とする。「淡路の海防を稲田氏に代行させている」ことの意味とともに、やはり前記一章で述べられている難解な課題である。

  また「ここで論じることができたのは、事件の政治過程の概略を整理できたに過ぎず、収集し得た膨大な史料の解読や分析も、すべて今後の課題としなくてはならず、日暮れて道遠しの感に呆然自失の昨今である」と述懐されるが、筆者にとっては多くの新しい提案や問題点の大胆な指摘があって刺戟的である。久しぶりに何度も読み返した労作を後進の筆者に与えてくれたことを感謝する次第である。

  さらに最後に三好氏は、庚午事変後の地域徳島の研究課題にそれらの問題点をどう繋いでゆくかを考えたとき「迷路に踏み込んだというのが実感」であるとまで述べておられる。一点にとどまり逡巡している筆者にしてみれば、頼もしくもあり、また恐ろしくもある。さらにご健筆を祈る次第である。
  

【参照文献】
  ○ 拙稿「公議政体派・徳島藩 覚書―蜂須賀斉裕から茂韶へ―」(『凌霄』第15号、四国大学、2008年)。
  ○ 拙稿「戊辰戦争と公議政体派徳島藩」(『明治維新と阿波の軌跡』、教育出版センター、1977年)。
  ○ 拙稿「稲田騒動とその諸環境―維新変革と分藩運動事件―」(『明治維新と阿波の軌跡』前掲)。
  ○ 拙稿「淡路洲本城代の成立をめぐって―徳島藩制成立期における一問題点―」(『明治維新と阿波の軌跡』前掲)。
  ○ 「誌上討論/徳島藩明治維新史の評価をめぐって」(『史窓』第3号、徳島地方史研究会、1972年)所収の拙稿及び三好昭一郎氏の論考。

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※ この研究ノートは、三好昭一郎氏の個人研究誌『読史異論』4 に掲載されたものである。徳島藩幕末・維新史に関心をもっておられる方々への報告ノートとしてより広くお読みいただくために、徳島地方史研究会のホームページにも掲載していただくこととなった。事務局の松下師一氏には厚くお礼を申し上げる。(2013年5月20日)
  

2013年6月3日月曜日

【研究ノート】三好昭一郎著「徳島藩庚午事変の検証」から学ぶ/松本 博/〔連載第3回〕

 
    三好昭一郎著(2011年12月15日発行)『阿波近世史論―検証と再構築―』所収
    「徳島藩庚午事変の検証 -その背景の見直しを中心に-」から学ぶ
  〔連載第3回〕

松  本     博            

前回の続き)

    4 戊辰戦争と徳島藩の活躍 (続き)

  そして9月7日、新政府より更に500人の追加出兵の要請が下る。ここにおよんで、「阿淡は摂海枢要の地」であることと「遠路隔絶」を理由にして、つぎのような苦しい言い訳をする。
  「弊藩兵隊五百人、至急東京へ指し出すべき旨、昨日御達しの趣畏み奉り候、然る処、兼ねて人数少しの上・・・遠路隔絶、往復の日間もこれ有り至急の御用節のため遅延にあい至り候ては忽ち不都合に相成り申すべきは必然の儀と重畳恐れ入り奉り候」(『復古記』)
  続いて9月28日、ついに徳島藩はこれ以上の負担に耐えられず、「国力の限界」わけても経済的疲弊はいかんともし難く追加出兵を忌避したのである。
  「最早国力あいおよびがたく、根元疲弊の上、頻年天災、洪水等打ち続き、旁以って巨万の失費限り無く・・・この上会計の道いかんとも方便御座なく、一藩食禄減少申し付け、必至困窮必死の極に立ち至りおり候」(『復古記』)
  その後、奥州に弱小の兵力を留め対面だけを保った公議政体派・徳島藩は、「右出張の節、朝廷より御渡し仰せ付け置かれ候御旗の儀、何卒そのまま当藩へ拝領仰せ付けられ下されたく、此段願い奉り候」と朝廷より預かった「菊章旗」の下賜を願うのが精一杯であった。それは、明治元年10月25日のことであった。

  さらに筆者はつぎの史料に注目する。(写真参照/徳島県立文書館所蔵「武田家文書」)


徳島県立文書館所蔵武田家文書『時勢見聞録』  表紙


左側のページの冒頭から


右側のページの末尾まで

当藩之武断ハ乏シク 他藩之指笑(嗤笑か)ヲ受候ハ今更申迄モ無之 遺憾切歯ニ不絶次第ニ候 先年奉命東下候茂鎮撫之為ト者申ナカラ 東国江出陣モ不被仰付 譬被仰付迚モ黙々滞府可致訳ニ無之 幾重ニモ歎願シ兵ヲ率シテ進軍可致ハ当然ニ候処 其節ハ其心寄モ薄キ処ヨリ徒ニ府下之御用ノミ相勤今日ニ至リ 何ノ方効(報効か)モ不相立他藩之指笑(嗤笑)ヲ受候段 於武門残念至極之次第ニ候 去ナカラ此件ハ既往ニ属シ無詮方次第唯向後万一急務之節 他藩ニ先タチ輦下馳参シ 何地江成共唯壱軍挙而為王事躬鞠(鞠躬)尽力セスンハ有へカラスト存込候ニ付 於一同臣ニ乱ヲ忘サルノ覚悟尤専要ト存候 依而如此陳述致候也
知  事   
  (明治二年)九月十二日              蜂須賀家旧藩主
従二位公也  
                                 参 事
                                 隊長中
                                 其他役人中
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  〔補注〕
      指笑(嗤笑・ししょう=あざけり笑うこと) 
      方効(報効=恩に報いて力をつくすこと)
      輦下(れんか=天子のひざもと) 
      躬鞠(鞠躬・きっきゅう=身を屈めて慎みかしこまるさま)
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  ここに掲げた史料は美馬郡東端山の「武田家文書」(『時勢見聞録』)によるものである。知藩事蜂須賀茂韶の名において藩内に掲示または回達文として出まわったものを、庄屋武田家が書き留めたものである。筆写控えとして記録されたものであるため、誤字・当て字等があるが、明治2年段階までの藩内の政治的・軍事的・社会的事情が率直に表明されていている。そこには幕末以来、時局の動向に追随しようとしてそれが十分にできなかった公議政体派・徳島藩の苦渋の実態が吐露されている。この文書の内容は、ある意味では維新史徳島藩の到達点であり、庚午事変前夜の追いつめられた藩内事情を伝えるものと思えてならない。

  三好氏がいう徳島藩の「相応の活躍」が「稲田家中と比較して、決して劣るものではないと若い兵士たちが自負していた」との評価は、維新政変のなかで相対化して見直してみる必要がありはしないかと思われる。


    5 版籍奉還と稲田旧家中の動向

  戊辰戦争の後、明治政府は中央集権的な天皇制国家の形成にむけて版籍奉還を断行するが、それによってそれまでの大名と家臣の主従関係は解消され、いわゆる身分制と禄制の改革がおこなわれる。それにともなう家臣団の待遇の改変によって大名の直臣と陪臣の間に深刻な格差が生じた。

  三好氏は、稲田主従によって繰り返し執拗に行われた待遇改善の歎願と「稲田藩」分藩独立運動について、その過程を丁寧に分析し問題点を明らかにしている。そして稲田主従の要求には、前述の洲本城下に集中する上層家臣と、稲田氏の猪尻屋敷を中心に集住した猪尻侍との間には意識の上で大きな隔たりがあったことを強調する。特に猪尻派の南薫風が同志である先川牧之進に宛てた手紙に注目して、猪尻侍が洲本派の要求する分藩には批判的であったことを明らかにしている。この問題点の指摘は、今後庚午事変の再検討をする上で見逃せない視角であり、猪尻派で尊王運動に活躍した尾方長栄の動向などとともに注目しなければならないことを教えられる。

  また、ほとんど同じ時期に起こった長州の脱隊騒動や福井藩の武生騒動との比較研究の重要性についても触れており、他藩との比較も庚午事変再検討の忘れてはならない視角であることを教えられる。


※ この記事は全4回連載の予定です(次回〔最終回〕は、6月10日〔月〕公開)。
  

2013年5月27日月曜日

【研究ノート】三好昭一郎著「徳島藩庚午事変の検証」から学ぶ/松本 博/〔連載第2回〕

  
    三好昭一郎著(2011年12月15日発行)『阿波近世史論―検証と再構築―』所収
    「徳島藩庚午事変の検証 -その背景の見直しを中心に-」から学ぶ
  〔連載第2回〕

松  本     博            

前回の続き)

    3 稲田家主従の独自路線

  ここでは三好氏は、稲田家臣(陪臣)を洲本派と猪尻派とに分けて、その両派の異なる意識と行動を問題にする。従来より氏がとくに庚午事変の研究上において重視してきた課題である。これまでの研究史上、筆者も学ぶところの多い課題である。とくに『稲田家中筋目帳』や「蓁原家文書」の解読と分析(この2つの文書を対象とする研究はまだまだ不十分であると思われるが)によって稲田家主従の事変への対応に違いがあったことが闡明になると思われる。三好氏はこの論文においてその作業の糸口をわれわれに提示してくれている。氏は稲田家と洲本派および猪尻派との間にある主従関係の成り立ちをつぎのように考える。まず洲本派は、洲本城下に集中した稲田家の上層家臣で三田昂馬、内藤弥兵衛ら高禄の陪臣たちである。のちに彼らが中心となって士族待遇実現の歎願書を提出したり、さらに稲田藩の分藩を主張することになる。一方、猪尻派は稲田家の美馬郡猪尻屋敷を中心に集住していた陪臣たちである。この猪尻派について三好氏は「天保期以降に家臣として取り立てられた新規召抱えの者が多く、その大半は村役人や富農たちの家系に繋がる人たち」であったと云う。『稲田家中筋目帳』によると「一二〇人の家臣が侍町に居住して拝知支配の本拠としていた。両郡(美馬・三好)の一九か村にも一、〇九七人の家臣が散在していて、これらを総称して猪尻侍といっていた」と。またこれら猪尻侍の知行高は異常に低かったという。こうした両者の存在形態の違いは、やがて稲田氏の分藩運動への対応の違いとなって顕在化してゆくこととなる。

  そしてさらにまた一方、淡路の由良・岩屋の海防がとくに重視され稲田氏にその任務が担わされるにおよんで「稲田家主従はそのような淡路海防の前線を担うことを契機に、急速に家来の新規取り立てを図るとともに、家政改革を成功させて、藩からの自立意識を強めるに至ると、やがて稲田家として単独で尊攘路線に傾斜していった」のだと三好氏はいう。しかし、この猪尻侍と淡路の海防との関係はどのような実態であったかについては論究されていない。今後の研究課題としなければならないであろう。


    4 戊辰戦争と徳島藩の活躍 (前半)

  この章はこれまで三好氏が積極的に触れることのなかった部分である。これまでの研究において、稲田氏の尊王討幕運動が過大に評価され、逆に徳島本藩側の活動が正当に評価されていないことを危惧して、ここに新たな提案がなされたものと考える。その点、筆者はいくつかの論評をしていることもあって強い関心をもって学ぼうとしたところである。

  三好氏は、まず「新政府による出兵の相次ぐ命に従って、その都度陸海の諸戦に出兵し、京都から奥州の三陸沖に至る広範な戦闘において、窮乏する藩財政事情にも拘わらず、相応の活躍を演じていることは、多くの文献、史料で容易に確認することができる」と述べている。そして「蜂須賀家記」「管内布達」「鎮台日誌」「陣中日誌」「太政官日誌」などから、徳島藩がうけた出兵要請の事実や各地での戦況とその結果などが引用、紹介されている。
  慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いから、翌明治2年5月の函館戦争までの長期、広範囲にわたる旧幕府軍と新政府軍の戦いが戊辰戦争ではあったが、本質的には王政復古後の維新政府部内における薩長を中心とする挙兵討幕派と土佐・越前などを主軸とする公議政体派との間の主導権争いとしての性格をも内包していた。したがって諸藩の動向は複雑多様、また一進一退を繰り返し、しかも諸藩の事情は政治的立場の上でも藩財政上においても混乱、妥協と対立、逼迫が厳しく問われた。「曖昧藩」「公武合体派」から討幕派に転じたという徳島藩を新政府が戦力としてどのように引き込もうとしたかについても十分に考慮しながら史料を読み込むことが必要であろう。三好氏が本節において引用されている史料中の「・・之砌人数致出張候段神妙ニ候」「・・各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食」などの表記にも「相応の活躍」として消極的に認知されたものであることに留意しておくべきであろう。

  そのこと以上に注目しなければならないことは、新政府から各地での戦いに出兵を「命じられ」ているにもかかわらず、その要請に応じ切れていない(むしろ忌避したというべき)事実の確認が必要であろう。例えば、慶応4年5月に奥羽越列藩同盟が成立し、さらに討幕軍が上野に彰義隊を討つが、この直前に徳島藩は「・・就テハ奉職以来寸功モ無之、乍漸時御暇奉願候段、別テ本意ニ相背候得共、従来辺鄙頑固之国情、(中略)何卒百日計御暇被下置、一応帰国、速ニ一新之実効相立申度奉存候」(『復古記』)と一時帰国を願い出ていること、さらに帰国直後に願い出た「貨幣鋳造の許可申請書」のなかに吐露されている事態は深刻であった。

  それは「関東鎮撫として東下を仰せつけられているが、国元では頻年出水旱ばつで凶作が続き、藩の財政はひしと窮迫している上、春以来処々に出兵し何かと費用がかさみ、ただちに軍資金調達の目当てもなく、止むを得ず出兵の直前に拝借金を願い出たが許可されず当惑難渋するばかりであった。しかしながら出兵の日延べを請うことは勤王の志にそむくことになり部門において不本意である。最早他に方法はなく、この上は阿淡両国限り通用の金銭を鋳造することを許されれば融通の目途も立ち借財も何とかできる。これが許可されないならば、東征出兵も不可能である。この段ひとえに懇願するしだいである。」(『復古記』筆者意訳)というのである。

  この申請書は5月晦日に阿波中納言(茂韶)から弁事宛に出されたものである。ここに当時の徳島藩内事情のすべてが集約されて表現されているといっても過言ではないであろう。その後、徳島藩は兵制も十分に整わないまま6月、奥州白川口まで応援出兵しているが、藩内の「稲田隊」の活躍に期待せざるをえないまま事態は推移する。そして9月7日、新政府より更に500人の追加出兵の要請が下る。ここにおよんで、「阿淡は摂海枢要の地」であることと「遠路隔絶」を理由にして、つぎのような苦しい言い訳をする。    (連載第2回終わり/次週に続く)

※ この記事は全4回連載の予定です(次回は、6月3日〔月〕公開)。
  



2013年5月20日月曜日

【研究ノート】三好昭一郎著「徳島藩庚午事変の検証」から学ぶ/松本 博/〔連載第1回〕

  
    三好昭一郎著(2011年12月15日発行)『阿波近世史論―検証と再構築―』所収
    「徳島藩庚午事変の検証 -その背景の見直しを中心に-」から学ぶ
  〔連載第1回〕

松  本     博            

  このたび三好昭一郎氏が表記の労作を公にされた。この論文は、2011年1月に発表された『阿波郷土史論集』PART7所収論文「明治三年徳島藩騒擾事件の再検討」に徹底検証のうえ補筆したものであると氏は述べておられる。とくに《戊辰戦争と徳島藩の活躍》という新たな章を設け、この事変の背景として戊辰戦争における徳島(本)藩側の「活躍」を具体的に論証されようとしていることは注目される。また三好氏は冒頭、これまで阿波、淡路のそれぞれにおける研究に誤謬や偏り、歪曲があったことを指摘し「一挙に事が運べそうもない」としながらも、この事変に関する膨大な史料の選択や歴史的証言の信憑性に疑問をいだきつつ「先行研究を批判することから始めたい」と意欲的に述べておられる。

  そこでまず、三好氏が検証の枠組みとして設けられている項目の順を追って、筆者(松本)の気がついた部分をとりあげながら、この提案論文から学ぶべきところやいささか気になることがらを述べてみたい。

*          *          *

    1 研究史の再検討

  ここでは、三好氏はまず『徳島県史』・『兵庫県史』の記述の明らかな間違いや不十分さについて述べられているが、それはここではさておき、三好氏が『洲本市史』における新見貫次氏の諸説を紹介している部分は、しっかりと耳を傾け今後の研究の参考にすべきものと考える。

  稲田氏の家老職、洲本城代職、洲本仕置職の成立の時期とその後の職務・権能・権限の推移の問題を新見氏は『洲本市史』でどう書かれているかを三好氏は引用する。そして「その論旨は歯切れよくない」とことわりつつ、新見氏のいう「城代や仕置といってもそれが世襲でなくその人によって違うので、淡路全体の支配者はあくまで蜂須賀氏であり、その任命を受けていろいろの職務を担当したのが稲田氏である」とする説は実証的論究であると主張する。そして三好氏は「淡路経営の機構は洲本仕置職という藩の出先機構と考える」とし、これまでの稲田氏による淡路の一円支配または委任統治という考えや、筆者などがいう徳島藩政の「二重構造論」を否定する。淡路における稲田氏を過大評価する説の否定ともいえよう。

  今後の庚午事変の背景を探ることを目的とする研究において、稲田氏の徳島藩筆頭家老職・洲本城代職・洲本仕置職のそのそれぞれの成立の過程、年代および任命権など、この複雑な問題は、制度上の問題か、単なる機構の問題か、または実質的権能の問題か、徳島藩の藩内の権力基盤の問題か、そしてさらに対幕府関係は捨象できるかなどが再検討される必要があるであろう。また「世襲」の意味と現実的実態の推移の問題も同様である。それらを説得力をもって語れることは、幕末徳島藩における稲田氏の存在について検討する場合の重要な指針となるものと思われる。


    2 幕末徳島藩の政治過程

  ここでは、藩主斉裕の政治的立場とその子の世嗣茂韶時代の藩の立場および行動の問題が問われる。幕末の徳島藩は11代将軍家斉の第22子であった斉裕を養子に迎え13代藩主とした。12代藩主蜂須賀斉昌には子がなく、しかも時代は天保期という藩財政の窮迫と百姓一揆の多発する藩内事情もあったこと。また、斉裕が乞われて幕政に関わったために藩の政治を家老層に委ねる体制に頼ることとなったこと。そのことから政局のゆくえを占う藩論の統一もできなかった。それらの事情を三好氏は「筆頭家老稲田植誠主従の尊攘運動という独自の行動に駆り立てる背景となった」と述べる。幕末の徳島藩をこれまで一般に「曖昧藩」「公武合体藩」「公議政体派」としてみたり、さらには藩主茂韶の時代を、曖昧藩から討幕派への転身などと評価されてきた。

  三好氏はその時期の政治過程を具体的に整理しようとする。淡路の海防体制の強化、とりわけ由良浦、岩屋浦の台場築造が注目されたこと、また、藩内攘夷派の結集に努めた新居与一助や、藩外の攘夷派との交流を深めたという志摩利右衛門などを「氷山の一角」として紹介するが、結局藩内の志士たちの動向は「個別分散的で、藩論を討幕路線に転換させる力とはならず、藩中枢を動かすものとはならなかった」という。そして「こうした藩内の情勢が稲田主従の運動に対して、決定的な負い目となって藩士たちの間に反稲田感情を定着させてきたことは否定できない」という。

  さらに三好氏は、徳島藩の政治姿勢を「曖昧藩」と規定することに異議を唱えるが、幕末における現実の政治状況のなかでは、佐幕も討幕もその立場上鮮明にすることもなかった「斉裕治下の徳島藩は確かに曖昧藩とみられていたことは確かなことである」とも述べている。    (連載第1回終わり/次週に続く)

※ この記事は全4回連載の予定です(次回は、5月27日〔月〕公開)。
  

2013年4月29日月曜日

【管理人の独り言】デジタル四方山話〔2〕 -スマホの巻-

  
 昨年(2012年)秋からK社製のスマートフォンを使用している。フルブラウザーによるWebの閲覧やEメールのチェック、写真の撮影、記事の執筆など、何かと便利に使用している。過去に愛用したシグマリオンと比較しても、格段に便利な道具である。

 と言うわけで、私なりには不満は無かったのだが、OSであるアンドロイドがバージョン2.3(旧モデル)であったことから、製造メーカーであるK社がOSのバージョンアップを実施した。間のバージョンをすっ飛ばして、この4月11日から一気に4.1へのメジャーアップデートである。

 まあ過去の経験からして、こういった新バージョンを慌てて導入するとろくなことは無い。往々にして初期不良があり、トラブルに見舞われるのが落ちである。

 だが、…。わかっていても最新版が欲しくなるのが、人の性(さが)である。「もしかすると失敗するかも知れない。」と思いつつ、K社がアップデート情報を公開した4月11日の深夜、無線LANでデータのダウンロードを開始した。待つこと約1時間、わがスマホがアンドロイド4.1へメジャーアップデートされた。「うおぉぉ、ヌルヌルだがサクサクと画面が切り替わる!」「これが4.1なのか!」と、年甲斐も無く深夜に大興奮してしまった。

 ところが(というか、「やはり」というべきか)、携帯メールソフトが正常に動作しない。危惧された不具合の発生である。何度再起動しても、電池を一旦外して強制的にリセットしても、まったく改善されない。心配になってPCで検索してみると、同じ症状で苦しんでいるユーザーの苦情が次々と見つかり、「あぁぁぁ、やっちまった!」と自己嫌悪に陥ってしまった。けっしてメーカのK社を恨んではいない。「たぶん、初期にはトラブルがあるだろう」と予測したにもかかわらず、それを軽視した自分自身が情けないのである。

 結局、その夜はメールソフトの不具合は何ら解決せず、眠れぬ夜を過ごすこととなった。とほほ。

 翌日は朝から仕事であったが、午後、所用で仕事を早退したため、思い切って自宅からK社のコールセンターへ相談の電話をかけてみた。正直、あまり期待せずに電話をしたのだが、結果は思いがけないものであった。

 事前の予想としては、音声ガイダンスに従いながら電話番号を押して担当部署へ繋ぎ、女性オペレーターがマニュアルを見ながら「その不具合については、ただ今お調べしております」と回答するイメージで電話をかけたのだが、それはまったく違っていた(良い意味で裏切られた)。

 K社へ電話をかけてみると、音声ガイダンスも無く、「はいはい、どうしましたか?」と年配の男性の声(これには内心とても驚いた)。コールセンター的なざわつきも、臨席で鳴る電話の音も無く、なんだか研究所の一室で技術者が直接電話に出たような雰囲気であった。「あの~、アップデートしたら不具合が発生したのですが、…。」と、私なりに精一杯事情を説明すると、「は~ん、なるほど。」と、実に落ち着いた声(まるで、すべてを知っているかのような落ち着いた声)。「では、対象機種をお持ちになってください。まず、☆◆※△◇…。」と、操作が的確に指示され、そして携帯メールソフトは復旧した。パーフェクトである。ありがたい。

 結論としては、携帯メールソフト内部にキャッシュ(過去のデータ)が残存していると、アップデートが正常に完了しないという事象で、キャッシュの消去で無事復旧したのだが、同時に過去のメール履歴が消滅するという残念な面もあった。事前にこの点を承知していれば、履歴のバックアップを作成できたので、少々悔やまれる(まぁ、実害はほとんど無いが)。

 いずれにせよ、「不惑の歳」(40歳)をとうに過ぎたのに、新しもの好きで一喜一憂する自分を省みて、なんとも滑稽なのである。

(当ホームページ管理人 松下師一)


 

2013年4月22日月曜日

【管理人の独り言】第35回公開研究大会「土地に刻まれた阿波の歴史」

  
  先月(2013年3月)3日(日)の午後、文化の森の多目的活動室を会場に、徳島地方史研究会の「第35回公開研究大会」が開催されました。


  大会テーマは「土地に刻まれた阿波の歴史」で、平井松午(徳島大学総合科学部)・徳野隆(徳島地方史研究会代表/徳島県立文書館)・松下師一(松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館)の3名が研究報告を行い、小休の後にパネルディスカッションで討議を行いました。


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  報告の最初は、平井松午氏の「吉野川の洪水遺産 ― 舞中島 ―」です。パワーポイントによるわかりやすい情報提示で、近世・近代から現代に至る舞中島(吉野川中流域の川中島)の変化が紹介されました。


  2人目の報告者は徳野隆代表で、 「新田開発・地震・再開発 ― 和田津新田の場合 ―」と題して、小松島市和田津新田の開発史(主に近世史)が紹介されました。


  最後(3人目)の報告者が当ホームページの管理人である私(松下師一)で、 「災害史にみる民衆生活の変貌 ― 災害後の産業構造の推移 ―」と題して、松茂町域の戦後農業史を災害との関連から分析してみました。なお、報告していましたので、写真がありません。

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  報告の後、小休を挟んで、当会研究委員長・石尾和仁氏(徳島県立鳥居龍蔵記念博物館)が司会を担当して、報告者3名によるパネルディスカッションが行われました。

  会場からの質問に答える形でディスカッションが進められ、様々な観点から阿波の開発史が議論されましたが、壇上にいた者の一人として、結局、「自然との“共生”とは何か?」が問われた研究大会であったと結論づけています。

(当ホームページ管理人 松下師一)

2013年4月8日月曜日

【管理人の独り言】デジタル四方山話〔1〕 -カメラの巻-

  
  近世・近代を研究対象にした地方史研究者にとって、写真を撮るの機会はたいへん多い。

  第一に研究対象である古文書は貴重品で、持ち出し不可であるため、写真で複製を作成することになる。近世・近代の古文書になるとその数量は膨大で、私が大学院生の頃などは、1日で500コマ撮りマイクロフィルムで1本半撮影などと、しゃかりきに撮影したものである。20年たった今は、カメラが重くて大型の平河製マイクロフィルムカメラから、軽量コンパクトなデジタルカメラに変わったものの、相変わらず1日に古文書を数100コマ撮影することがある。

  昨年夏も、「阿波学会」調査に参加し、東みよし町の古文書を1日に300コマほど撮影した。

  また、美術品や民具など、立体物を撮影する機会も多い。私は本職が小さな博物館(松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館)の学芸員なので、図版やパンフレットの作成等々、写真を撮るのも仕事の重要なテクニックである。

  別に学芸員にならずとも(高校・大学の先生や、民間の研究者であっても)、資料調査の過程で記録しておきたい書画・骨董に出会うと、普通に(ごく当然に)写真を撮影するであろう。立体物の撮影になると、背景・光線・露出などに注意し、1コマの撮影に長い時間をかけて行うことになる。

  結果、歴史研究者の少なからぬ人々が、カメラをはじめ撮影機材にこだわりを持つようになる。

  我が徳島地方史研究会においても、TK先生を筆頭に何名かの顔が思い浮かぶ。

  実は、私もそれに連なる1名で、マニアックな高級機は経済的に無理だが、安価な普及モデルでいろいろ試すのが大好きである。

  そんなこんなで、TK先生が某R社の高級コンパクトデジカメをベタ褒めしているのを聞き、ならばとR社の普及モデルをアマゾンで購入してみた。ここ10年あまり、古文書の撮影はバリアングルモニター仕様のC社のデジタルカメラを愛用しているので、今回購入のR社の普及モデルは、イベント記録など日常持ち歩くスナップ撮影用の位置づけである。

  ところがこのカメラ、なんともクセモノなのである。ホワイトバランスが不調で、室内で撮影すると色が赤く仕上がってしまう。メニュー画面から設定を色々いじっても全く改善されない。ついには「不良品か?」と諦めかけていたところ、“ふと”気がついた。

  「デジタルカメラももコンピュータープログラムで作動しているはずだから、もしかして修正プログラムが発表されているのでは?」

  予想はビンゴであった。R社のホームページには、我が愛機の修正プログラムが掲載されていた。やはり、ホワイトバランスに関する修正である。

  やれやれと胸をなで下ろしたのも束の間、すぐまた疑問が沸き上がった。通信機能を持たないデジカメのプログラムを、どうやって修正(アップデート)するのだろうか?

  ホームページで手順を確認すると、なるほど納得である。ホームページからパソコンに修正データをダウンロードし、そのデータをSDカードに移す、そしてそのカードをカメラに挿し込むと、修正プログラムが既存プログラムを上書きしてアップデートされる仕掛けである。

  無事アップデートを終えると、写真の出来栄えは見違えるようになった。ようやく納得の色である。

  やれやれ一件落着と言うべきところだが、それにしても不十分な状態でよくまあ販売に踏み切ったなぁと思う。「多少難があっても、1分1秒でも早く市場を押さえよう!」、つまりは「拙速は善」ということだろうが、正直、ユーザーとしてはあまりいい気がしない。

  我が執筆原稿も、ついつい締め切りに四苦八苦し、「どうせ校正で直せばいい」と、不十分なままに出稿した過去が思い出される。必ずしも「拙速は善」では無い。他山の石として、心したいものである。

(当ホームページ管理人 松下師一)