2014年4月26日土曜日

【研究ノート】「管内布達」「御布告」などに見る明治初期の世相/松本 博

     
「管内布達」「御布告」などに見る明治初期の世相


松  本    博

(1) 城山で正午を報せる≪時報(ドン)≫! 明治5年の正月から

  正午を報せるために空砲が発せられた。東京では1871年(明治4年)に始まり1929年に廃止されたという。夏目漱石の「坊ちゃん」のなかでは「腹の減った時に丸の内で午報(どん)を聞いた様な気がする。」などと出てくる。
  当時はまだ名東県といわれていた本県ではつぎの「管内布達」にも示されているように、明治5年1月11日の昼十二字(時)より、毎日、徳島城内で空砲が一発打ち上げられ正午を報せることになった。県庁からの布達である。この≪ドン≫は新しい時代への「予兆」だったのだろうか。当時の大砲の写真はないが、のち大正天皇の御大典記念事業で城山に設置されたと伝わる昭和初期の写真(『写真で見る徳島市百年』より)があるので参考のために掲げておこう。


於城内来ル十一日ゟ昼十二字
大砲一発ツゝ毎日時號砲執行
候条為心得相達候事
壬申正月  県 庁
(明治五年「管内布達」名東県)
午砲(ドン)写真
     

  慶応年間の「ええじゃないか」の嵐のなかで勃発した戊辰戦争。そして大政奉還、王政復古の大号令。さらに版籍奉還から廃藩置県へと時代は動いた。維新変革の矛盾のなかで、当時を生きた庶民は戸惑い、行く末に期待もあったが苦しむことは多かった。そして一方では、次の時代への準備が着々と進められていった。

  さて、これから「管内布達」「御布告」などからこの時期の世相をふりかえってみよう。

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  次の布達は明治6年9月30日付で、名東県権令の林茂平から第一大区々戸長に対して出されたもの。「番外」の布達である。これによると今後午前六時と午後六時に≪報時鐘≫を大滝山外2ケ所において打ち報せることになったとしている。


番外 第一大区々戸長へ
大瀧山外二ケ処之報時鐘
今後午前六時ヨリ午後
六時ニテ打報候条此段
及布達候事
九月三十日
名東県権令 林 茂平
(明治六年「管内布達」名東県)
  人びとに時刻を報せるのに鐘鼓をとどろかせることは、日本ではすでに7世紀まで遡るらしい。また1日を分割して時刻を数える方法を時法といい、現在使われている時法は定時法と呼ばれ1日(平均太陽時)を24等分している。江戸時代は、日の出から日没、日没から日の出までをそれぞれ6等分したもので、季節により時間間隔が変化する不定時法であった。そして昼の12時を午の刻、夜の12時を子の刻などと呼んでいたのである。

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出火之節於城山為知
鐘相廃止今後寺院
釣鐘市中半鐘ニテ為
相知候条此段可相心得候

壬申三月  県 庁
(明治五年「管内布達」名東県)
  ここに示した布達は、明治5年3月に出されたもの。火災があったとき、城山にあった鐘で市中に報せることを廃止して、街中の半鐘を打ち鳴らして報せることになったので心得るようにというものである。これは時報ではないが、以後長くつづくことになる街の防火の営みである。

※注 このコラムに掲載している「管内布達」文書の写真は、徳島県立図書館所蔵の複製文書を利用したものである。特にことわりのない限り同様であることを了解されたい。