三好昭一郎著(2011年12月15日発行)『阿波近世史論―検証と再構築―』所収
「徳島藩庚午事変の検証 -その背景の見直しを中心に-」から学ぶ 〔連載最終回〕
松 本 博
(前回の続き)
6 徳島藩兵隊の反発と洲本襲撃 《 *最も注目すべき提案! 》
ここでは淡路洲本派を中心として分藩独立運動を展開した稲田氏に襲撃を加えたのは、徳島本藩の士族だけではなく多数の淡路農兵隊であったことを明らかにしようとする。本論文のなかで三好氏が再検討課題として重視提案する問題である。このテーマは徳島におけるこれまでの庚午事変研究に新たなイメージを持ち込んだとさえいえる注目すべき提案である。すでに淡路においては菊川兼男氏が「淡路農兵隊の経緯」(多田伝三先生古希記念『阿波文化論集』所収)や三好氏が本論文中に引用する菊川氏の「明治維新前後の徳島藩淡路の動向」などによってあつかわれてきた問題であるが、庚午事変の全容を明らかにしようとする意図をもってこの淡路農兵隊の問題に焦点をあてた傾聴に値する提案である。
版籍奉還にともなう藩政の改革によって、稲田家旧家臣(陪臣)は士族に編入されず藩の銃卒とされ経済的にも冷遇された。しかし、この稲田陪臣たちは、幕末には勤王派として活動し、戊辰戦争の段階におよんでは新政府から徳島藩や丸亀藩と対等で「洲本藩」などと併記され東征軍への出征の要請を受けた。稲田主従によるこの「洲本藩」の僭称にはそれなりの理由があった。それは三好氏も認めているように、稲田氏の旧家来から知藩事に出された第四回陳情書のなかに述べられている「稲田家の功績」に自負するところがあったからである。それはやがて分藩運動へと発展するが、そこのところを三好氏は「洲本派の場合は王事に奔走し、戊辰戦争に加わった真の狙いが藩の支配から脱し、身分の上昇を期待することにあった」と評価する。
ところが、稲田主従の分藩要求が顕在化するにおよんで徳島藩の士族は檄文をもって、稲田旧家来の誅伐を呼びかけるが、「とくに洲本の襲撃に際して主体的に攻撃に加わったのが藩の淡路農兵隊員たちであって、農兵の参加が事件の性格をより複雑なものにしている」と三好氏はいう。淡路農兵の編成の経過と実態、そして戊辰戦争に徳島本藩側の農兵として駆り出された事実などについて、ここで詳しく紹介する余裕はないが、三好氏は、淡路農兵は「御蔵百姓を対象とし頭入百姓は徴集していない。そのため稲田家の知行地からは一人の農兵も出していないことは明らかである」という。幕末の淡路海防の総指揮権を委ねられた稲田氏が、土着の士=淡路農兵に対してどのような処遇をしているかは今後の課題ではあるが、三好氏は「稲田家中に対して農兵が被差別の状況の下で、駐屯させられていた事実があり、農兵たちが騒擾事件に際して過激な軍事行動に出た背景があったものと推測することができそうである」と述べる。
7 洲本襲撃と事後処理
最終章では徳島藩士および淡路農兵隊によって、洲本稲田家下屋敷ほか三熊山麓の旧稲田家臣が集住する武家街一帯が襲撃せられた明治3年5月13日とそれ以後の事変の処理状況が問題にされる。この洲本襲撃を実行した藩兵諸隊は銃士100余人、銃卒4大隊、大砲4門の編成であったといわれ、この「諸隊には八〇〇人の農兵も集結したとされ」(三好氏)ている。一方、無抵抗を守ったといわれる稲田方は、稲田家宇山邸のほか洲本派重臣たちの屋敷、学問所益習館、長屋多数が焼き払われ、また多くの死者、自殺者、負傷者がでた。また同時に計画された美馬郡脇町の猪尻への襲撃、そして「大坂の稲田家蔵屋敷と徳島城下の寺島屋敷も狙われたが、いずれも未遂」に終わった。この一連の騒擾事件を結果として太政官は、襲撃を加えた藩兵側には10名の斬罪ほか、多数の流刑、禁固刑、謹慎等を命じ、また分藩運動を展開した稲田旧家臣たちには北海道開拓移住を命じた
日本の近代化の過程で起こったこの悲劇事件は、その後の徳島そして淡路の地域社会の政治、経済、文化活動などに絶大な影響をおよぼした。その総括は今後もつづけねばならないであろう。三好氏はこの対立した「両者の意識と行動を分け隔てる決定的な要因として、近世初頭以来の藩による稲田氏の処遇に対する不満、版籍奉還を経ても改められない守旧的意識など、分析対象としなくてはならない課題が山積していることを痛感させられる」と問題点を指摘する。
* * *
「まとめ」のなかで三好氏は「本論では在来研究の空白部分を埋めることを課題として取り組むことにした」と述べるとともに「課題にアプローチするためには、藩政初頭における藩の稲田氏に対する処遇の問題にも遠因があることを否定できない」とする。「淡路の海防を稲田氏に代行させている」ことの意味とともに、やはり前記一章で述べられている難解な課題である。
また「ここで論じることができたのは、事件の政治過程の概略を整理できたに過ぎず、収集し得た膨大な史料の解読や分析も、すべて今後の課題としなくてはならず、日暮れて道遠しの感に呆然自失の昨今である」と述懐されるが、筆者にとっては多くの新しい提案や問題点の大胆な指摘があって刺戟的である。久しぶりに何度も読み返した労作を後進の筆者に与えてくれたことを感謝する次第である。
さらに最後に三好氏は、庚午事変後の地域徳島の研究課題にそれらの問題点をどう繋いでゆくかを考えたとき「迷路に踏み込んだというのが実感」であるとまで述べておられる。一点にとどまり逡巡している筆者にしてみれば、頼もしくもあり、また恐ろしくもある。さらにご健筆を祈る次第である。
【参照文献】
○ 拙稿「公議政体派・徳島藩 覚書―蜂須賀斉裕から茂韶へ―」(『凌霄』第15号、四国大学、2008年)。
○ 拙稿「戊辰戦争と公議政体派徳島藩」(『明治維新と阿波の軌跡』、教育出版センター、1977年)。
○ 拙稿「稲田騒動とその諸環境―維新変革と分藩運動事件―」(『明治維新と阿波の軌跡』前掲)。
○ 拙稿「淡路洲本城代の成立をめぐって―徳島藩制成立期における一問題点―」(『明治維新と阿波の軌跡』前掲)。
○ 「誌上討論/徳島藩明治維新史の評価をめぐって」(『史窓』第3号、徳島地方史研究会、1972年)所収の拙稿及び三好昭一郎氏の論考。
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※ この研究ノートは、三好昭一郎氏の個人研究誌『読史異論』4 に掲載されたものである。徳島藩幕末・維新史に関心をもっておられる方々への報告ノートとしてより広くお読みいただくために、徳島地方史研究会のホームページにも掲載していただくこととなった。事務局の松下師一氏には厚くお礼を申し上げる。(2013年5月20日)